VR空間における視聴覚刺激を利用した奥行き知覚の向上
久道 直輝
蒔苗研究室
2020 年度卒業
VR環境下ではHMDに焦点を当てながら仮想空間内の物体に注目することによって眼球の機能に矛盾が生じ、奥行き知覚が低下することが確認されています。そこで、複数感覚の刺激を同時に与えて過去の経験を想起させると、そこで生じると予測される知覚を与えることができるクロスモーダルという技術に着目しました。本研究では視聴覚刺激を基に歩行経験を想起させ、奥行き知覚を向上させることが可能であるかを検証しました。

はじめに

背景と研究目的

VR技術は通信や医療、建築などの様々な分野との連携による有用性から注目され、カメラを利用した遠隔操作や特定状況下における訓練を行うためのシミュレーターなどといった用途で日々研究が進められている。遠隔操作や訓練等の目的で用いる場合においては、より正確な操作性、体験を得るため、正しい奥行き情報を得られることが必要になる。しかしながら、ヘッドマウントディスプレイ(以下HMD)を用いた表示方法では正確に距離を認識することは難しくなることが確認されている。

一方でVR環境においては、複数の五感情報を同時に与えることにより感覚情報を変化させるクロスモーダルという現象が没入感の提示に用いられることがある。その変化は生理的な要因の他に、それまでの日常生活での経験を基準とした尤もらしさを要因とするものもあり、その感覚を引き起こし得るだけ定着した経験が必要となる。

本研究では以上の点に着目し、誰もが日常的に経験する歩行を題材とし、その経験を想起させることでVR空間における奥行きの知覚を向上させることを目的とする。

調査

先行研究

先行研究では、視対象が人型である場合にその大きさ、距離がVR空間での奥行き知覚に及ぼす影響を実験により検証した。その結果、視覚情報のみを提示する条件において、視対象の形状による違いは無く、大きさと距離が奥行きの知覚に影響を与えていることが明らかになった。これは、ディスプレイに焦点を合わせることにより、人が奥行きを得るための手がかりである、眼球の輻輳と水晶体の調節に矛盾が生じることが原因の一つであると考察した。

その他の先行研究として、実際に操作するマウスの動きに対してカーソルの動きを意図的に変化させることで、錯覚的に触力覚を提示するという、触覚や力覚、視覚等を用いたクロスモーダルを示した研究が挙げられ、同様の現象はVRでも確認されている。こうした複数感覚を同時に処理するクロスモーダル現象に対しベイズの理論を応用した説明がされることは、これは複数刺激が与えられたときに得られる知覚は日常的に経験、学習してきた複数感覚情報が提示される類似イベントのもっともらしい過去の状況に引っ張られて錯覚的に生じることを意味する。このことから、日常的な経験に基づく錯覚である場合、単一の感覚刺激だけでなく複数を利用して状況を再現することで正しい刺激を与えなくてもその環境で生じると予測される知覚を与えることができるという考察がある。

研究方法

仮説

HMDを用いたVR環境下において、視覚と聴覚に複合的な刺激を与えることで日常的なイベントを想起させる状況を作ることによって、経験を基に視覚情報を正しく補正することが可能になると考えられる。

 

実験目的

本研究では歩行という日常的な経験を想起させる刺激を与えた際に奥行き知覚が向上するのか、また、どの知覚にその傾向が現れるのかを明らかにすることを目的として、被験者に接近する視対象との距離を歩行によって回答する実験を行う。視対象は人型とカプセル型の2水準、音は無音、足音、電子音の3水準を設定し、これらを組み合わせた複数条件を被験者に提示して歩行に伴う距離の正確さを測定し、比較することで与えられた刺激の持つ経験的な情報が知覚に与える影響を検証する。

 

実験環境

実験はHMD(Oculus Quest,Oculus社)とヘッドフォン(MDR-ZX110NC, Sony社)を使用して行い、VR空間の表現にはUnity 2019.4.4f1を用いた。本実験のVR空間には被験者の経験を想起させるための現実感、没入感が必要となるため、それらを満たすための環境を構築した。視聴覚のそれぞれの観点から構築した環境の概要を以下に示す。

 

1.視覚刺激

視覚情報から経験を想起させるためには視対象の外見、動作を正確なデータに基づき再現する必要がある。そこで、21歳の健康な男性の平均を基に、身長と体重がそれぞれ171cm,64kgの3Dモデルを作成し、カプセル型の視対象についても同様の大きさとすることで形状以外の条件を統一した。動作に関しては健康な成人男性5名を対象として、10mを歩行する際に要した時間を基に歩行速度を算出する実験を3回ずつ行った。この事前実験により得られた1.29m/sという平均値を視対象の歩行アニメーションに適用することで正確に歩行を再現した。

2.聴覚刺激

一般的に音を空間的に認識して方向を判断する際、前後・上下方向の場合は頭や体と衝突することにより生じるスペクトル変形を利用して判断している。こうした音声のフィルターを畳み込むことによって音が頭の外から聞こえるような空間的表現が可能になる。この機能に加え、距離による音の減衰の処理が可能なSteam AudioとUnityの音響システムを用いることで没入感を向上させた。

 

実験方法

被験者は健康な成人男性5名、女性2名とした。また、歩行を伴う実験であるため体育館を利用することで十分な広さと安全性を確保した。実験は図に示すように、HMD上で前方に描画した視対象を被験者に向かって音を発しながら接近させた後に非表示にし、その後到達地点と認識した位置まで移動するように被験者に指示した際の移動距離を測定して行う。以上を1回の試行として複数の条件で繰り返し行い、移動した距離と実際に提示した距離の比を評価値として統計分析を行うことで各条件が奥行き知覚に与える影響を検証する。また、被験者に提示する条件は視覚の2水準、聴覚の3水準に加え、機械的な位置の記憶を防ぐため視対象の到達地点を4mと5mの2水準に設定する。これらを組み合わせた12条件で以上に示した試行を各5回、計60回行う。

まとめ

実験結果

距離を除く各条件における評価値を図左に示す。評価値は1に近いほど正確であり、値が大きいほど対象を遠くに認識している。有意水準を0.05とする分散分析の結果、各条件が奥行き知覚に影響を及ぼすことを示す有意な主効果、交互作用は見られなかった。また、いずれの条件においても評価値は1を超えており、距離を過大評価したという結果が得られた。一方で、図右に示すように被験者別に分析した結果、4名に形状の主効果が見られた。その他に1名から無音条件と足音提示条件間での有意差が見られ、無音条件で距離を過大評価したことが明らかになった。

 

考察

本研究では、視聴覚刺激の交互作用、主効果は確認されなかった。しかしながら、被験者ごとのデータを別個に分析した結果、多くの被験者で主効果や影響を受けている傾向が見られた。したがって、条件による影響が無いのではなく、被験者によって異なる経験則や感覚が作用した結果、個人差が強く出たものと考えられる。

視覚の条件に着目すると、多くの被験者で形状が奥行きの知覚に影響を与えている傾向が見られたが、両条件での大きさは統一しているほか、形状の違いは奥行き知覚に影響を与えないことが先行研究で報告されている。よって、両条件の差異である歩行アニメーションの有無が影響した可能性が考えられるため、同形状の視対象に対しアニメーションの有無を設定して再度実験し、検証する必要がある。

聴覚刺激については、1名を除き主効果が得られなかった。これは簡素な野外空間を実験環境として構築したことによって音の反響が少なくなり、適切な音響を再現できていなかったこと、歩行という経験の想起から得られる効果が微弱であり、聴覚が敏感な被験者のみにその影響が見られたことなどが原因として考えられる。したがって、歩行のように誰もが普遍的に体験する状況ではなくとも、奥行きの知覚と密接に関連し、より強い効果が期待される経験を想起させる環境を再現して実験を行うことにより、聴覚を利用したクロスモーダルによる奥行きの補正が可能であるかどうかを検証していく必要がある。

また、既往研究ではVR環境下においては距離を過小評価する傾向にあることが報告されているが、本研究ではいずれの条件においてもわずかに距離を過大評価する傾向が認められた。これは、全ての条件に共通し、尚且つ先行研究と異なる要素である被験者による距離の回答方法が影響したものと考えられる。先行研究では視覚情報を遮断した状態での歩行という方法で位置を指定したが、本研究で採用した方法では大きな変化のない視覚情報が歩行時に与えられることにより、被験者が認識している以上の距離を移動した可能性や、視覚情報が与えられることにより先行研究の手法よりも正確な回答方法となった可能性などが考えられる。視覚、聴覚の観点から別個に研究を行う場合でも影響する要素であるため、何が作用した結果であるのかを複数の実験方法を用いた研究により明確にする必要がある。

 

終わりに

本研究では歩行経験を想起させる視聴覚刺激がVR空間内での奥行き知覚に与える影響を検証した。その結果、各条件による有意な差を確認することはできなかったが上記の仮説や改善点が得られた。これらを基に視覚や聴覚、実験方法などの観点から細分化した研究を進めていくことで、本研究で得られた結果をより正確な知見とすることを今後の課題とする。

参考文献

[1] Andreas Pusch・Anatole Lécuyer.(2011).“Pseudo-haptics from the Theoretical Foundations to Practical System Design Guidelines”.Proceedings of the 13th International Conference on Multimodal Interfaces.

[2] 森健太・石橋圭太・岩永光一. (2019).「VR空間の視対象の形・大きさ・距離が奥行き知覚に及ぼす影響」.人間工学 55巻.

[3] Anatole Lecuyer・Jean-Marie Burkhardt・Laurent Etienne. (2004).“Feeling Bumps and Holes without a Haptics Interface”.CHI’04:Proceedings of the SIGCHI Conference on Human Factors in Computing Systems

[4] 荒井観・岡嶋克典. (2017).「クロスモーダル現象としてのPsued-haptics」.より豊かな感覚を生み出すPsued-haptics技術 特集号.

研究を終えて

幅広い分野で研究・利用され、多くの可能性があるVRにも機能上の制限があり、状況次第ではその機能を活かしきれない問題を解決したいという思いからこの研究に取り組みました。

実験結果として予想以上に強く個人差が現れたことで人が知覚を補正する能力の高さを感じると共に、この現象をより良い形で活かすことでVRのさらなる活用が期待されると以前よりも強く感じるようになりました。

上記の通り改善点もいくつか見られましたが、この研究が今後のVRの発展に繋がれば幸いです。

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