面影と暮らす
―歴史ある岩沼におけるまちなか居住の提案―
三浦舞子
平岡研究室
2023 年度卒業
岩沼は奥州街道の宿場町として栄え、多くの人が行き交った。しかし、時代の流れによって、本来の街道の形・型は失われつつある。かつて街道は細長い敷地に建てられた平入りの商家建築で構成されていたが、現在は分譲住宅や大型店舗が建設された。このような開発は街並みの破壊に繋がる。本研究は、失われた街道の姿「面影」を建築に落とし込み、現代に合わせた「核」のある岩沼での暮らし方を提案する。

はじめに

宮城県岩沼市は奥州街道と浜街道の合流地点で宿場町として栄え、多くの人が行き来した賑わいと活力のある町であった。しかしながら、モータリゼーションやベットタウン化、共働きといった時代の流れによって、今回の対象敷地である奥州街道は徒歩で日中に買い物をする生活の風景から、車中心で仕事帰りや週末に大型スーパーで買い物をするといった生活の風景に変化し、本来の街道の形・型は失われつつある。

前期研究では、歴史を感じ、周囲の建築物や人に対する波及効果を持つ「核」となる建築物の有無で、その街道の景観的なまとまりが変化するという結果が導き出された。このことから後期研究では、岩沼が宿場町で歴史ある町であったことを感じさせる「面影」を建築に落とし込み、現代の生活に合わせた「核」のある岩沼での暮らし方を提案する。

調査

岩沼は奥州街道と浜街道の分岐点に位置する宿場町として栄えた。岩沼要害といった政治的・軍事的に重要となる施設も置かれ、竹駒神社も多くの信仰を集めてきた。このことから岩沼は宿場町だけでなく、城下町、門前町としても栄えてきた。

今回の対象敷地が含まれる岩沼市中央1丁目・2丁目は商業地域に指定されており、奥州街道沿いは商業地、その背割り側は住宅地としての利用が多くなっている。

街道は幅約8mの2車線で構成され、交通量が多く、現状、歩道は色分けされているが、かなり狭く、小学生の登下校に使われる道としては危険である。そして、20年~15年前にはFig.1のような店蔵やその後ろに細長い居宅を設けている商家建築が多く見られたが、東日本大震災の影響や維持管理の難しさなどから、細長い敷地を細かく分割した分譲住宅になり、細長い敷地を合体させた大型店舗になってしまった。このような開発は本来の街道の街並みの破壊に繋がっている。背割り側は交通量が少なく、歩道の整備はない。しかし、小中学生は通学路として使用しており、放課後の時間帯には低い段差に腰かけて談話する中学生の姿が見られた。

街道の西側には小学校や市民図書館といった公共施設がある。北側にはかつての要害の堀の名残である水路が残っている。しかし水路沿いには遊歩道のようなものは設置されているものの、手入れがあまりされておらず、住民はほとんど利用していない。三浦舞子

研究方法

現在岩沼には「核」となる建築物は存在しておらず、今回の提案では「核」のポテンシャルを持った既存の建造物や敷地を選定し、今後新たに岩沼の「核」になれる建物の設計を行う。

「核」の存在によって街道の整備が点在していたものが面的に整備されるようになり、町の変貌が見えることにより、街並みを破壊するような開発を行わなくなるといった、ここで生活をする人々の歴史ある岩沼に対する意識改革に繋がる。ここでの生活する人というのは、岩沼に住所をおいて住んでいる人だけではなく、岩沼に仕事や学校で来ている人も指し、町での活動を行う人のことである。

今の奥州街道のまちづくりは車社会に適応させ、便利を優先させたものであるが、消えかかっている本来あるべき街道の姿を見直し、再構成するべきである。

「核」という点在している建造物を繋ぎ合わせ、街道が線として連続性を持って機能していくために、街道沿いの建物に対するデザインルールを作成した。

(1)平入り

(2)軒下空間を2m取る

(3)共通アイテムの使用(街灯の統一、暖簾の設置)

以上3点に従い、設計を行う。

建物高さは、街道周辺に低層の建物が多く、街道沿いは人のスケールに合った街並みを壊さないボリュームの提案を行う。

そして現状2車線である街道の一部を1車線に変更し、北から南に向けての一方通行とする。減らした1車線分を歩行者空間とし、整備する。

街道沿いの建物の設計は作成したデザインルールに従い、それ以外の背割りの部分などについては比較的自由なものとした。

背割り側にも人の動きが反映されるように「街道沿い」だけを考えるのではなく、広く見た「地域」として考え、設計を行う。

将来、街に回遊性が生まれるために①②③を街道中心部の「核」、④を北の「核」(竹駒神社を南の「核」とする)にすることを目的に敷地の選定を行った。

街道中心部に位置する八島家長屋門は江戸時代中期に建築された岩沼が宿場町であったことを伝える重要な建物である。商店街・街道の最も重要な「核」とするため、町・街道に開かれた小商い可能な長屋として改築する。基本的には現状の長屋の作りに従い、門の南側に1店舗、北側に3店舗とする。

岩沼にあった町家型の商家建築をモデルにし、かつ、背割り側への通り抜けの役割も担う商業施設を設計する。街道沿いには、デザインルールに沿った街並みの統一感を生む門を作成した。

細長い敷地をそのまま生かし、同じような細長い敷地を活用する際の今後の使い方のモデルになるような設計を行った。

活用しきれていない背割り側の閑静な敷地に集合住宅を設計する。表側の街道とは雰囲気の異なった、落ち着いていて暮らしに密着した敷地であるため背割り側を採用した。入居者は、これからの岩沼を担っていく若い世帯が住むと想定した。

敷地の南側には桜二丁目公園が隣接しており、この街区公園との繋がりと西側の街道から背割りへの抜け道との繋がりを意識した建物配置と動線計画にした。

岩沼駅からの人の流れと小学校からの人の流れ、奥州街道の人や車の流れが交差する敷地に多世代が利用できる施設を設計する。子供向けには室内あそび場、大人向けには自由なコワーキングスペースとする。住民の寄り合う場所が無くなっている岩沼で、人目につく敷地で活動を見せることが出来る施設とする。

この敷地は北側が水路に隣接しており、荒れ果てている遊歩道の整備も行い、遊歩道と敷地が繋がるような一体的な建物配置とした。

まとめ

町・街道の雰囲気を変えるためには、見た目を整えて完成ではなく、長いスパンの計画になる。今回、本研究を行ったことをきっかけに岩沼で生活をする人や商売をする人が「新たに自分達が手を加えていけばこの町・街道の活気に繋がるだろう」と考えることで、本当の意味でこの研究が完成になるだろう。

他の歴史的背景が見えなくなってしまった町も、その埃かぶってしまっていた価値を見出し、誰でも見えるように「核」を表に出す。そして過去の「面影」を落とし込みながら現代にも適応する新しい景観を作り出すことで、今後も継承されるような美しい町になるだろう。

参考文献

[1] 千葉宗久(2012) . 『いわぬま散歩歴史』.p257 .

[2]岩沼市史編纂委員会(2022).『岩沼市史 11』.p555.

[3]岩沼市「岩沼市都市計画マスタープランについて|岩沼市」

https://www.city.iwanuma.miyagi.jp/kurashi/infrastructure/toshi-keikaku/toshi-keikaku/2017-0428-0901-38.html

(2023年12月5日 確認)

研究を終えて

本研究はあなたの地元には何があるのと聞かれたときに悩んだことがきっかけであった。地元になにかがなければいけないわけではないことは分かっていながらも、心苦しい気持ちがあった。このことから、卒業研究では地元のことをやろうと大学入学時から考えており、設計という形に落とし込めたと感じている。やりたいことは100パーセント詰め込んだが、町が変わるためにはハード面を整えるだけではなく、人の動きが変化する必要がある。その着火剤のような役割が果たせたらいいと考える。

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