漂う
―不変なものとして身近な存在になることで生じる心の拠り所としての機能―
小出乃維
中田研究室
2023 年度卒業
プラスチックの板への加熱による縮みは、自分の思い通りに操作することは難しい。その制御できない力から生み出された動きを水面というモチーフに落とし込み、水面の瞬間的な動きを切り取る。外的要因がきっかけで変化や動きを伴う水面を、鏡面の形が変わることのない鏡で表現する。水面の瞬間的なきらめきを当たり前に眺めることができる作品として展示することで、心のよりどころとしてこの作品が成り立つことを願う。

はじめに

厚生労働省の令和 4 年の調べによると(※1)、仕事や職業生活に関することで強い不安、悩み、ストレスを感じている労働者の割合は 82.2%に上るという。そのストレスの原因として挙げられる一番の理由には仕事量の多さがあり、一日の生活において仕事に触れている時間が増えていることが分かる。リモートワーク化が進み、仕事と日常生活の区切りがつきにくくなっていることも原因といえるだろう。そんな社会では今、休息の場として公私を分離するための空間が必要と 考えられている。
そんな生活の中で変わることなく漂い続ける何かに出会ったとき、自分を取り巻く時間の流れとその漂う物体を取り巻く時間の流れの違いについて考えさせられるだろう。 本制作では、鑑賞者に対して非日常的な印象を与え、日常生活との切り離しのきっかけを与えることを目的に制作を進める。忙しい日常の中で時間の流れに触れる瞬間を作り、気持ちを落ち着かせ心の拠り所としての効果を持たせることを目的に 制作を行う。

調査

モチーフには前期卒業研究でも取り扱った水面を採用した。広大な自然である水面をモチーフにすることにより、その時間ごとの外空間の色を反映したものが表現できると考えたためである。水面をモチーフに反射が水面の歪みやうねりは不規則なものであり、時間を忘れて見ていることができるものである。また水面というものは常に外的要因によって変化し続けるものであり、二度と同じ水面を見ることはできない。そんな水面を、鏡面の形状は変わることがない鏡で表現することで、水面と同じ表面での反射の美しさを表現できると同時に、水面のきらめきや反射の様子をいつもと異なった目線で眺めることができると考える。
前期卒業研究においても、鏡を使い制作を進めてきた。鏡には色や周りの世界を映し出すツールとしての可能性を多く感じる。
私たちは鏡を見るという行為をしつつ、実際に見ているのはその鏡に映し出された世界である。身なりを整えるときに、自分と鏡の距離や向きを調節して映し出したり、見えない先から車が来るかどうかを向こうの世界を切り抜いて運転者に伝えるカーブミラーがあったりする。鏡を通して自分が見たい世界や空間を、鏡や自分の位置を変えることで切り抜いている。 前期卒業制作では、この切り抜きの行為に興味を持ち手持ちサイズの鏡を制作した。後期卒業研究でも引き続き鏡を使い、鏡での新たな表
現技法を提案する。
水面を表現するものとして、どの手法によって生み出されることが効果的であるかについて追及するため、軟質素材と硬質素材の二つ に熱加工を施す スタディを行った。
軟質素材として、ポリエチレンのビニールを使いスタディを行った。ビニールを手で引っ張ることでビニールが部分的に伸び、一つの面に濃淡が生まれる 。 この濃淡や手で引っ張る作業によって生じたビニールの縮みを波と見立てることができる自分の手の熱によって伸びやすくなったビニールによって生み出されるこの制作物は、熱加工を自分の手の熱と定めた 。この制作手段では引っ張る位置や強さの加減は無いため、制作者の意図が反映された作品が出来上がる。
次に塩化ビニールの素材でできた板に熱を加え、縮みの力でできた素材の歪みを活かした水面を制作した。 300℃のヒートガンで板に熱を加えると瞬間的に縮み、板に不規則な凹凸ができる。その縮みや凹凸 の具合は制御することができず、戻すこともできない。全体的にあててみても反応が起こる部分は限られており、板によって全く異なった表情が生まれる 。
また、素材の厚みによっても異なる素材の変化が生まれる。板の厚みが大きいものを使うほど熱による縮みは静かなものになる。また縮みを生むためにヒートガンをあてる時間が長くなり、素材自体溶けてしまい穴が開きやすくなってしまった。
以上二つのスタディを踏まえ、偶然できたものを全て受け入れ、自分の手によって一つの作品にまとめ上げるという行為が生まれる硬い塩化ビニールの板を採用し制作することを決定した。自分の手で水面の揺らぎを制御することができないという状況と、熱した板の形の完成形は制御することができず戻すこともできないという状況のリンクに魅力を感じたためである。また、前期に制作した手法である熱した板面をあてることでできる縮みよりもヒートガンによって生まれた縮みの方が自由な造形が 可能 である。これらのスタディから 、面という人に制御できない形を生み出すには塩化ビニールの板をヒートガンで熱するという 造形手段が最も優れていると考える 。そしてこの塩化ビニールの素材に、前期卒業研究でも使用したアクリサンデー株式会社のミラー調スプレーMS-80 を吹きかけて制作を進める。このミラー調スプレーは、透明な素材に吹きかけることで吹きかけた裏面がミラー調になるものである。もともと鏡面の素材を使わずにスプレーで鏡を制作することで、スプレーの吹きかける量の調節により従来の鏡では表現できない鏡の濃淡を表現することができるなどといった新たな鏡での表現技法の開発につながると考える。

研究方法

アクリサンデー株式会社のミラー調スプレーMS-80、塩化ビニール板 (210×297×0.1 ㎜)、アルミワイヤーを使用する。
本制作において、板に対しては 300℃のヒートガンで熱すること、全体に熱を与えて歪みを生じさせることを定め る。熱する作業は、歪みが自然的に生じることがなくなったら終了とする。意図的に当て続けることで素材は歪み縮み続け、最終的には溶けてしまう。その事態を避けるため、偶然的に生まれた歪みを受け入れるために、板の上を流れるように熱する作業の中で生まれた歪みのみを作品として残すこととする。
また、できた板は選別することなく全てつなぎ合わせる。板の角と辺の中点で、アルミワイヤーを用いて板同士をつなぎ合わせる。その際、大きさが異なる板同士をつなげるため、必ず端から隣り合うものを順番につなぎ合わせることとする。
つなぎ合わせ一つにまとめ上げたものを手に届かない高さ(2m30 ㎝程度)に天井からつるし上げて展示して完成とした。手に届かない高さにすることで、鑑賞者が水中を漂い、頭上に浮かぶ水面を眺めるという鑑賞状況を生むことを目的としている。また展示する高さに対して部分的に高低差を与えることで、場所によって光の当たり方が変わるとともに、動きのある水面が静止しているという迫力のある情景を表現した。

まとめ

この作品は静かな佇まいでありながらも力強さを感じるものとなった。一つ一つのパーツに刻まれる歪みが集合体として一つの歪みになった時、この水面は実際の自然界が持つ驚異的な力を彷彿とさせるような内なる力強さを見ることができる。その力強さの中にも、歪みが小さく純粋な鏡の反射をするパーツを見つけることができる。そのパーツには自分自身が映りこみ、水面の漂いが自分自身を受け入れてくれる。力強い波の動きの中に存在する自分を眺めることで、力強い存在が自分を取り巻き、自分を後押ししてくれる感覚を覚える。
また、椅子に座り下から眺めることでリラックスした体の姿勢を作ることができる。この作品を眺めながら、時刻によって変わる日の光の加減によって表情を変える本作品を静かに眺め、現実世界からの一時的な脱却ができると考える。この自分とは異なる時間軸の作品に対面することで、自分の最近の振る舞いについて振り返る時間を作り出し、気持ちをリセットさせる可能性があると考える。
これらの考察から、この作品は休息の場という空間づくりに貢献し、一 つの内装材 やインテリアと して 成り立つと考える。

参考文献

※1. 厚生労働省(2023). 『第 1 章 02 職場におけるメンタルヘル
ス対策の状況』
https://www.mhlw.go.jp/content/11200000/001154314.pdf
(2024 年 1 月 17 日閲覧).

研究を終えて

更に水面に近づける為のスタディを重ね、展示会では新しいビジュアルの作品に生まれ変わった。その時その時に自分の欲しい水面は変わり続けることから、この作品の制作に終わりはなく、永遠に形を変え続けることが出来るのだと気付いた。それは水面の漂いが変わることと同じことであり、水面をより愛する、作品を愛することに繋がると考える。本制作を通し、自分の心の拠り所を共有することで共感や考えを沢山頂いた。この経験も心の拠り所にし、これからも最後まで走り抜ける気持ちを忘れずに生きたい。

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