「祈る」とは何か、いつ「祈る」のか、何に「祈る」のか、今まで全く考えたことが無かったように思う。私はどんな場所にいても祈りたいことができれば祈るし、神社や仏閣に参詣しても祈りたいことが特になければ祈らない。しかし、今日の講義の中で、多くの人は初詣や墓参りなどに行けば祈るのだと知った。自分と周りの感覚の違いを実感し、もっと多くの人のデータを収集し「祈り」の捉え方を分析したいと思った。

建物、土地、偶像、食べ物、神様、、

本日のお話は多角的に多次元的に祈りについて考えるきっかけになった。

米の前の祈りの対象は何だったのか、日本神道と仏教の関わり、現代の祈りの対象は

何気なく、実は祈っていたという感想が増えてきたが、

実際何になぜ祈っているのか。

日本は無宗教だと思っている人や、逆に多宗教だと思っている人が多いと思うが

恐らく、世界中のどこを探しても祈ったことがない人はいないだろう。

「無宗教=祈らない」というわけではない。

人間は心のよりどころとして祈りの対象を求めないとやっていけないという考えもある。

私たちはそれぞれ何に祈っているのか考えていきたいと思った。

「いのり」というテーマを漠然と捉えようとすると、どんなに分け入ってもそこには明確なルールはなくて難しい。触れるうちに、人によって違う「いのり」の思いが大切できれいなモノに思えてきた。

でも、あまり普段から意識することって少ない。「~なりますように」は誰に向けられている?そもそも意識していることがとてつもなく割合として小さいのでは。人によって違うとしても「自分の意識」は大切にしてほしい。

このふわふわした定まらない「いのりのカタチ」をそのまま結果にしたい。それによって「意識」が変わるにしても変わらないにしても、きっかけとして十人十色の「像」がその先に生まれていればいいなと思う。

距離があるから祈りがあるのではというような話が印象的だった。距離が無い祈りを考えてみても想像ができなかった。

距離は不確定な感じ、曖昧さを生むのではないかと思う。オンライン授業では皆それぞれ別な場所で受講するため空間的に距離が生まれる。私たちは距離が離れることで、相手のことを理解しにくくなる。目線や間合い、表情、感情が読み取りにくい。相手を理解するうえで、対面よりも解釈する情報の正確性が落ちているように感じる。受け取る情報が曖昧であるがゆえに、やりにくさや不安を感じるのではないかと思う。
祈りもまた、目の前にないものや人や場に祈ることで不確かさ、曖昧さが生まれているように思う。叶えてくれるどうかは分からないが、人はその曖昧さの中に希望を込めて祈りをささげるのではないかと思った。

この講義が始まってからずっと、寝ても覚めても「いのり」にアンテナを張っている。この行為の由来はなんだろう、これは祈ってたんだなとひたすら頭に浮かぶようになった。それでもまだ本質は掴み難く、どうしても「これじゃない感」が隅にこびりついている。喉元まできている感じはするんだけどなあ、早く出てこい。

…これも祈りかも。

「『いのり』とは?」

仰々しいテーマを掲げてしまったなとは思うし、答えはいっぱいあって、答えはない。むしろ今回の制作物よりも、自分の価値観を話して他人の価値観に触れる、この時間のほうがよっぽどその成果を発揮している。終わらない議論は楽しいなぁと感じつつ、終わらせないとと感じつつ。

「祈りとは何か」という問いに対し、私たちはずっとグループ内で1つの答えを出そうとしてきたように思う。だが、たくさん議論を繰り広げ気づいたことは、いのりのかたちは人それぞれ異なるということである。

それは祈りじゃなくない?いや、私はそれは祈りだと思う。

みたいな会話を何度もした記憶がある。祈りだと感じる事象は人それぞれだし、祈りの意味、意義、価値も個人によって異なるのだという事を知った。最終制作物では「私が思う祈り」を集めて「私たちが思う祈り」を表現したい。祈りとは何かという問いの答えは1つではない。見る人に自分にとっての祈りとは何かを考えてもらえる体験をつくりたい。

今日、一番興味がわいたのは、祈る時に手を合わせる行為について。

簡単に調べた結果としては、仏教を通じて持ち込まれたと考えられている「合掌」から来ているという。

日本に来てから、食事の前やお願い事をするときにも用いられるようになった。

仏教が入ってくる前から日本は八百万の神を信仰していたが、その時まではどのようなお祈り作法をしていたのだろうか。

祈りについて、動作や作法の成り立ちから見ていくことも面白いと思った。

2限、発酵食品の話が始まった時、「これ、祈りとどう関係するんだ??」という疑問が沸き上がってきた。しかし話が進むにつれて、米と信仰の関わりが見えてきて夢中で聞き入ってしまった。食品と祈りは全く別ジャンルだし結びつかないだろうと勝手に思い込んでいたが、食文化と信仰という新たな視点が新鮮で興味深かった。

きっとこうだろうとか、昔こう習ったとかいう常識にとらわれずもっと広い視野を持ちたい。最終成果物の制作では先入観を捨てて身近なものや事象と祈りの関わりを探ってみたいと思った。

ゲストレクチャーの中で、戦争が祈りを変えたという話が印象的であった。確かに歴史を振り返ると宗教・信仰といったワードと戦争・国家といったワードは同時に語られる場面が多くある。祈りが政治的な関与によってカタチを変えてきたということが新しい視点だった。日本の歴史といのりのかたちの変遷との関わりについて興味がわいた。

失われたもの、変わったもの、変わらずに残っているもの、新しく生まれたもの。いのりのかたちは様々あるのだろが、その背景にも目を向けてリサーチしていきたい。

今更ながらいのりのかたちプロジェクトが「祈りの形プロジェクト」ではなくて本当に良かったと思っている。うまく言葉にできないが、何となく「祈」の漢字がこわい。痛そうである。
痛そうと思うのは、「折る」に引っ張られているからだ。ではなぜ、祈るには「斤(オノ)」がつくのだろうか。

調べてみたところ、「斤」は物に斧の刃を近づけたさまを描いた象形文字で、すれすれに近づく意を含む。「近」の原字だそうだ。そして「礻」は祭壇(神にいけにえを捧げる台)の象形文字である。合わせて祈は「示(祭壇)+斤」で、目指す所に近づこうとして神にいのること、らしい。

やっぱめっちゃ斧じゃん。痛そう。
漢字の成り立ちに文句はつけないが、このプロジェクトでは抽象的な扱いをしていたいのでできるだけひらがなでいたい。日本語便利。

漢字にまつわってもうひとつ。祈りと願いの違い。辞書的な意味では、
「祈る」→神や仏に願う。祈願する。
「願う」→神仏に望みがかなえられるようにと請い求める。祈願する。
とでてくる。

え?どっちも祈願してるじゃん。祈って願ってる…一緒…?

それでも「祈り」と「願い」を別に考えて解説している人はたくさんいて、違うものでもありそうだ。

「言葉は社会の変化に追いつかないという宿命を常に背負っている。そこには必ず、タイムラグが生じる。」らしい。先日読んだ本に書いてあった。
「封建制が崩れ、四民平等の世界で身分を超えた恋愛が可能になっても、ラブレターを書いたりできるような近代日本語というものが、かろうじて確立するまでおよそ50年のタイムラグが生じている。」らしい。

いのりも同じだと私は思う。

仰々しいようなTHE・いのりともいう神への信仰や、加持祈祷、豊穣を祈る踊りなど、それらが元祖いのりではあったのだろう。
しかし現代社会において、こっそり心の中で「ガリガリ君当たれ」とか「信号赤になりませんように」とか「家族の病気がよくなりますように」とか、重さに限らず自分の力が及ばない念のようなものはもう同じ感情だと思う。

前者しかいのりと認めない人もいるかもしれないが、日常に潜むちょっとした「~であれ」「~るように」とかも、もはや感情としてはいのりであって、言葉としてはもういのりに収まらないのかもしれない。当てはめきれる気になれないのかもしれない。だから少し違和感とかがあっていのりかいのりじゃないかという論争になるのではないだろうか。(論争まで仰々しくもないと思うが。)

先日家の冷蔵庫が壊れた。真っ暗になって冷えなくなってしまったのだが、どういうわけか私が開いたらなおってまた冷えるようになった。それでも「もう寿命だよね」と新しい冷蔵庫を買うことにはなったのだが、私的に面白かったのはここからだ。新しい冷蔵庫が25日に届くことになりそれが届くまでいつ壊れるかわからない冷蔵庫との最後の生活が始まった。母が「25日に届くまで、今の庫を全力で応援しよう!」と送ったのに対して、父が「25日までもつように祈るのみですね。」と返していた。25日まで冷え続けられると良いですね。

発酵という切り口が「祈り」に関わるとは全く思わなかった。

お供えしたものには神の力が宿る、という考え方らしい。神の力によって成ったお酒が伝説や祭事にたびたび登場するのも納得できる。

ところで、当時の人にとってこの発酵が「不思議なこと・理解できないこと」だったとするならば、信仰の対象となるのも生物的に必然だったのかもしれない。いくらかの生物の生存本能は危険を学習するものであるから、理解できないことというのは予測できない危険の可能性といって差し支えないからだ。抗いようはないがそれでも、という働きかけの最終手段としての「祈り」なのかなあと。

少し話題に出した神棚の話も、由来を調べてみたところ、一説には竈、井戸、厠など、家の中にあった病の危険を神の祟りとして崇めるところからきているとか。

「神」の起こりは、人知の及ばない事象に対してそれを自分たちなりの理解とし、ストレスなく生きていくための本能なのかも。

昔と現代ではいのりのかたちが違う。昔は未曽有の災害など生きるか死ぬかみたいな次元で祈っていたのに、最近は缶ジュースもう一本当たれみたいな、なんてライトに祈っているのかと思う。いつの間に変わったのか、どう変わっていったのか、それが見えてきたら面白い。

なんて書いたすこし後、

いや昔だって缶ジュースもう一本当たれって祈ってたかもしれなくない?と思った。缶ジュースが無かったとしても、悪さしちゃってバレそうなときとか、流れ星来そうなときとか、昔の人たちだってライトにも祈っていたんじゃないかと思ってきた。逆に、現代にだって災害時やどうしようもない大事の時に真剣に強く強く祈る人もいるだろう。

「いのりのかたちは変わってきた」ということがそもそも決めつけだった。変わってきたのかもしれないし、実は変わってないのかもしれないし、少しだけ形を変えたかもしれない。まだ答えは出ていないが、色んな可能性を広い視野の中で検討しなければいけないと改めて思わされた。

先週の編集後記のタイトルは「先入観を捨てて」だったのだが、全然捨てれない!!むずかし!!

パンを食べない地域はあっても、『いのらない』地域はないのではないか?

長い歴史の中で『いのり』が変化しているのは間違いない。「自然」に祈り、「動物」に祈り、「神」に祈り…。つまり『いのり』を捉えるうえで、何に『いのる』かというのは本質ではなく、もっと言語化できない感情によって突き動かされた結果なのであろう。半ば世界共通的に発生している『いのり』は、「文化」の皮を被っているだけで、その本質は動物的な“本能”に近しいところに位置しているのかもしれない。

「行事がなくなっていのりがなくなる」との話の中で、ともすればそれは「文化」の潮流であり、『いのり』の表面的な部分が変質するだけなのかなと思った。「歴史」は紡いでいかなければならないけれども、『いのり』は個体や時代や地域にあった形で存在し得るのではないだろうか。「変化は悪いことなのか?」という質問をしてしまったが、それに飲まれるも抗うも営みという「文化」であり、結果に過ぎないのだなと今は感じている。

『地球も

――誰かに何かを伝えることを「表現する」ことだと考えると、「表現する」ことはコミュニケーションの延長線上にある。これは双方向的なものだけでなく、主体だけ(客体を意識しない発信)、客体だけ(主体の意図しない受信)も存在しうる。ともすれば、窓の外に広がるこの景色も「地球の表現活動」と言えるかもしれない――

寒いのかなあ』

前回の編集後記ではいのりのかたちは人それぞれであるという旨の内容を書いた。制作を進めるにあたって、他者が考える祈りに触れることで、そういういのりのかたちもあるなと気づかされたり、自分とは違う意見を面白く感じたりした。映像を作るだけでなく、映像に込められた意味や祈りの要素を文字化して共有したため、他のグループメンバーの考えをよく理解できた。ハトは祈りを伝え運ぶ存在であるということや火と祈りの関係など、私になかった考えや視点を共有してもらい興味深く感じた。展示では、展示の参加者が思う祈りについてGoogle Formで回答を回収する。より多くの人のいのりのかたちに触れることを楽しみにしている。

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